三十六歌仙絵巻物語〜episode 1 hundred〜

11月24日迄京都国立博物館で『佐竹本三十六歌仙絵巻と王朝の美展』が行われていました。鎌倉時代の絵巻物の三十六歌仙の内三十一幅が集められた展示会でした。

前回のブログで松方コレクションについて書かせて頂きました。一人の実業家のコレクションが、時代の流れの中で散逸し再びコレクションが成熟期を迎える話をしました。この三十六歌仙は、超国宝級の一つの作品を三十六に分断しつつ新しい芸術として生まれ変わる物語です。

歌仙絵とは、歌仙の絵姿に詠歌や伝略を書き添えたものです。12世紀には、歌人の姿とその和歌を書いた物が神社などに奉納されています。

この佐竹本三十六歌仙絵巻の物語は、1917年秋田侯爵家に伝わる国宝級の二巻の絵巻物が売りに出された事から始まります。絵巻物は、当時のお金で17万円 今のお金で換算すると30億から40億といわれています。筆が、伝後京極良経、絵が伝藤原信実です。藤原信実は、源頼朝の絵を書いたと伝わる藤原隆信の息子です。その事だけでもこの絵巻の歴史の重みを感じます。この絵巻は、佐竹家から売りに出されて直ぐに購入者が現れます。しかし、時代の流れの中、再度数年後に売りに出されます。

この国宝級の鎌倉時代の絵巻物が、国外に流出を防ぐ案が実業界で練られます。その中心人物が、三井物産の社主の益田孝(鈍翁)でした。

鈍翁は、思案をし尽くし国宝級絵巻物を分割することを決定します。そして、1919年12月 品川の鈍翁の茶室応挙館で日本を代表する財界人、数寄者が集められ分割案が決定し、三十六歌仙絵の持ち主を決める籤引きを行う事となります。国宝級の絵巻を切り売りにする憂慮や躊躇、そして勇気、いろいろな事を想像したと思います。絵巻にハサミを入れる職人も手が痺れたでしょう。

 三十七に分割された絵巻は、それぞれの数寄者に渡ります。折しも世界恐慌、第二次世界大戦前夜の頃です。三十六歌仙絵巻は三十六の運命を辿ります。戦後時代が落ち着き数寄者に愛でられた歌仙絵は、新しい表装に仕立てられ芸術作品に生まれ変わります。まさに、芸術の新しい形になって行きます。

今展示会の学芸員のコメントに『本来、文化財は、当初の形を残していく事が大切です。しかし、この歌仙絵巻の様に数寄者が愛蔵し新たな息吹を吹き込む事で絵巻を美術品として昇華させたといえるだろう。』(ふりやてつお談)。日本美術史上非常に希な出来事で歴史的遺産であると感じます。令和の時代になりその元年に三十六歌仙絵巻が観られる事に只々感謝しこの絵巻に新しい息吹を与えて頂いた数寄者にも感謝、感謝です。

                             (出光美術館蔵)

私が、この三十六歌仙絵巻の中で一番のお気に入りは、柿本人麻呂の歌です。

【ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れゆく 舟をしぞおもう。】

たまたまですが、私が大藏流狂言の普及委員をしていまして、大藏流狂言の演目に舟船(ふねふな)という曲があります。主人と太郎冠者が西宮に遊山に出掛けます。神崎川に差し掛かり渡舟を呼びます。船(ふね)や〜い!と船頭を呼ぶ太郎冠者に主人は舟(ふな)と呼べ!といいます。そこで、(ふな)と呼ぶか(ふね)と呼ぶか?ふね、ふなの付いた古歌を詠みあいます。その中にこの歌が登場しています。

丁度、今頃、秋から冬に差し掛かる瀬戸内の朝、朝霧の中をゆっくりと静かに歩む舟 瀬戸内の朝の情景が目に浮かびます。関西生まれの私には、永遠に続いてきた朝の情景が心に突き刺さります。

万葉に思いを馳せつつ三十六歌仙の絵巻物をじっくりと眺める。その絵巻を見る機会を得るだでただ有り難く三十六歌仙絵巻を観ている自分自身を客観視するだけでドキドキします。たまたま能楽を習っていたお陰で更に、三十六歌仙絵巻にも強い思い入れが出来ました。古の力に感謝ですね。

私は、このザンシン堂において少しでも宮城・おおさきに伝統文化や伝統芸能を少しでも広めていこうと改めて思いました。今後も展示会情報や催事情報を上げていきます。少し長くなりました。お付き合い頂きありがとうございました。

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